曾祖母の思い出そして失ったもの

私は幼い頃は共働きの両親に代わって明治生まれの曾祖母に面倒を見てもらっていたので、その影響をいろいろ受けて育った。

曾祖母は80代半ば頃までは、毎朝つげの櫛で髪を梳き、椿油を使って髪を結っていた。

長谷川町子原作の漫画の実写版ドラマ「いじわるばあさん」が子供の頃大好きだったのだけど、青島幸男が演じるばあさんの姿は、キャラクターは別としてまさにうちの曾祖母そのものだった。

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というか1980年代頃の一般的なおばあさんのイメージはこういう姿だった。

今となってはこういうおばあさんを探すことの方が難しいだろう。

ところで「お灸をすえる」というのは、懲らしめ、戒める意味の比喩表現だが、曾祖母は私たち姉妹を懲らしめる時は「やいとうをすえるで」と言って本当に手の甲にもぐさをのせて火をつけた。

山奥の農村で生まれ、また嫁いだ先もこれまた山奥の農村で比較的余裕がある農家だったのに限られた食材を使ったものしか食べてことなかったので料理のレパートリーが極端に少なく、焼き飯を孫の為に作ってもネギしか入っていない味のしないものだったり、肉というものをその生涯で殆ど食べたことがないため調理法もよく知らず、母が夕飯用に買っていた味付け豚肉を焼かずに生で食べているのを発見してびっくりしたことがあった。これは呆けたからではなく、知らなかったからだ。

ただ、昔から作ってきた料理、例えばバラ寿司や、鯖寿司、黒豆などの味は天下一品だった。

曾祖母は手先が器用だったからか、それともその年代の女性なら誰でも習得しておくべき技術だった為か家事は何でもできた。特に和裁をしている姿を強く覚えている。子供の頃に着た着物や浴衣は曾祖母が縫ってくれたものだった。

庭先に茣蓙を敷いて、足の指の間に藁を挟み縄を編んで、草履や農作業で使う薦を作っていたのも覚えている。お正月に玄関に飾るしめ縄も祖母が作ったものだった。

味噌を作ったし、鶏を何十羽も飼って卵を産ませたし、畑で自家用の野菜を作った。冬になれば桶いっぱいに白菜を漬けた。

曾祖母は賢い人だった。余計なことは一切口にせず、人の陰口や悪口を言っているところを見たことがなかった。尋常小学校時代はとても優秀で教科書を一読しただけで内容が全て頭に入るほどの秀才だったらしい。もし、生まれた環境が違っていたら全く別の人生を歩んでいただろう、と今でも親戚の人が話すくらいに。

曾祖母はとても信心深くーそれは私が子供時代に近所に住んでいたおじいさん・おばあさんといわれる年代の人は全てそうだったのだけどー曾祖母は毎日近所のお寺の境内にある白山権現という神様にお参りに行くことをかかさなかった。それは90歳で亡くなるその前日まで続いた。月に何度かいろんな講と呼ばれる集まりがあって、それは農村の生活に欠かせない地域交流の場として機能していた。大師講は大師堂と呼ばれている大師像をお祀りした小さな建物に農村のおばあさんたちが集ってお茶を飲みながら喋っていて、私や近所の子供たちはお接待といってお菓子をもらえるのでそれを目当てに大師講の日にその建物に行っていたが、何をしていたのかは知らない。

ちなみに学生時代、宮本常一の「忘れられた日本人」という民俗学の本を面白く読んだことがあるが、それは本で過去のものとして語られていた昔の農村の風俗の残滓が私の故郷にはあったからだ。けれどそれから20余年経ち時代の変遷と共に消えてしまった。

 

忘れられた日本人 (岩波文庫)

忘れられた日本人 (岩波文庫)

 

 こうして曾祖母のことを思い返してみると、子供の頃ごく当たり前に身近に接していたいろんなことが今ではすっかり失われてしまったことに気づく。もっといろんなことを聞いておけばよかった、教えてもらえばよかったと後悔してみても遅い。

過ぎた日のノスタルジーと言えばそれまでだけど、大げさかもしれないけど失ってしまった文化や習慣はもう取り戻せないのかと考えると愕然としてしまう。時代の変遷でなくなったものはそうなるべくしてそうなったのかもしれない。

けれど、ただただ寂しい。